手相と西洋占星術の関係
茶道や華道、ヨガ、宗教…。
どんな分野にも、流派ってありますよね。
その世界のことをよく知らない素人さんから観ると、
「どの流派も、やっていることは同じじゃない!?」
なんて思ってしまうのですが、
流派が違えば基本となる考え方から方法まで、大きな違いがあります。
手相占いも、そんな世界の一つ。
手相には色々な流派があります。
大きく分けると東洋の流派と西洋の流派があるのですが、
一般的に現在はほとんどの占い師さんが
西洋流の流派に基づいた手相術を用いているようです。
…と、ここまで読んで、
「ええっ!?手相って中国かどこかで生まれた東洋の占いなんじゃないの?」
と驚いた方も多いことでしょう。
確かに、手相占いというと東洋的なイメージが強いのは事実です。
しかし、実際に手相を占ってもらうと、
「太陽線」がどうのこうのとか、「木星丘」にこんな印が出ていて…
といった話をされますよね?
これは、手相術の背景に西洋占星術が絡んでいる証拠。
太陽や木星は、ご存知のとおり天体の名前ですから(笑)。
つまり、西洋では、
手相術が発達する段階で西洋占星術の考え方がミックスされていて、
「手の平には小宇宙が宿る」と考えたのです。
手相用語に星の名前が出てくるのはそのような理由です。
手相はいかにして広まったか
さてさて、手相には大きく分けて
東洋と西洋の2つの流派があるということをご理解いただいたところで…。
今度は、手相の歴史を観ていきましょう。
そもそも手相は、中国でもヨーロッパでもなく、インドで生まれました。
ちょっと意外でしょうか(笑)?
でも、有名な古代文書である『リグ・ヴェーダ』にも手の図解がありますし、
バラモン教徒の秘法と呼ばれる書物にも
手の平の線の図やその意味の解釈が
合計で100以上も書かれていたといいます。
(しかもこの書物、人の皮膚をつなぎ合わせて作られていたんですって!!)
手相の流派が東と西に分かれているのは、
手相がインドから東西に分かれて伝わって、
それぞれの場所で発達していったからです。
例えば、西の流派の手相は、
アラビア半島を経由してヨーロッパやアフリカに伝わりました。
特にギリシャにおいては手相学が著しく発達。
かの有名なピタゴラス、アナクサゴラス、
アリストテレスといった哲学者も手相学を研究していたんだそうですよ。
なかでも、アリストテレスの功績は現在でも高く評価されています。
(アラビア・インド・エジプトなどで実地の調査・研究を行っていたんだそうです)
そしてこの頃、西洋手相学の流派の基礎である
「丘」「三大基本線(知能線・生命線・感情線)」の名称が
確立したと言われています。
その後、手相はカトリックの目の敵とされて迫害・弾圧されると言う憂き目に。
その結果、ジプシーなどの流浪の民によって、
草の根的にヨーロッパ全土に広まっていったのです。
中世に入ると、ダンパルチニーとデバロールの2人の活躍によって
手相学は一気に躍進!
キログノミー(手型)とキロマンシー(掌紋)を統合する形で
「キロソフィー」が生まれ、西洋式手相の流派の礎となったのです。
東へ伝えられた流派どうなった?
ここまでは、西洋で発展した流派のお話。
では、東に伝わった手相はどうなったのでしょう?
まず、古代中国の周王朝で易学とともに手相鑑定が行われていたことが
分かっており、現在の東洋系の流派の基礎になっていると考えられています。
ちなみに、こちらの流派の手相家で有名な人物としては、
中国では周の叔服(しゅくふく)、姑布子卿(こぶしけい)。
漢の許貞(きょてい)、宋の陳博(ちんはく)。
そして、明の袁忠徹(えんちゅうてつ)がいます。
特に、袁忠徹がまとめた『神相全編』はよく知られていますね。
我らが日本では、平安時代の頃に易とともに中国から伝わってきたのだとか。
とはいえ、本格的な手相研究が始まるのは江戸時代になってからのようです。
しかし、ヨーロッパほど手相研究が盛んではなかった様子。
明治時代に入ってから、
非常に豊富なデータを持つ西洋流派の手相が入ってきたことをきっかけに、
手相の研究が本格的になったということです。
つまり、日本で行われている手相は、
東洋といいながら西洋の流派の影響を強く受けているというわけですね。
日本の手相研究家で有名な人といえば、長島真雄、
イギリス人手相家のキロの原著を翻訳したことで知られる大和田斎眼、
小西久遠(こにしひさとお)、中村文聡(なかむらぶんそう)、
大和田斎眼(おおわださいがん)、
西谷泰人(にしたにやすと)などがいます。
また、最近では、心理学者の浅野八郎(あさのはちろう)氏が、
手相による性格診断に心理学的統計をミックスした
『手相術』(光文社)を発表しています。
この流派に対抗する流派としては、
帝王学と算命学を加えた「東明流手相術」があります。